赤レンガ・瓦屋根造りの建物『熊谷聖パウロ教会礼拝堂』
煉瓦造りの壁面が印象的。鐘楼の力強さと大きな切妻屋根とのバランスが美しい。今の聖堂は1919年にJ・マキム主教によって聖別され、赤レンガ・瓦屋根造りの建物で地域の人々に親しまれています。1923年の「関東大震災」、1945年8月の「熊谷空襲」の中を歩んできた礼拝堂は、今も人々の信仰を支えています。設計は立教大学の礼拝堂や校舎を設計・監督した米国人建築家ウィリアム・ウィルソン。http://nskk-kitakanto.org/facilities/kumagaya-christ.html

昭和6年、医師の坂田康太郎氏は新たな診療所を妻沼下町に開設。鉄筋コンクリート構造の平屋建て。玄関には外側へ突き出したポーチが造られ、外壁を覆うスクラッチタイル貼りが建物の顔。内装は診察室などその面影が残っている。部屋の上部は直線的なデザインで、温和な美が感じられ、アールデコ調の照明が印象的です。今や映画やドラマの撮影場所として注目を集めています。

メヌマポマードの創始者、井田友平氏の居宅「井田記念館」
昭和27年、妻沼町に誕生した井田友平氏の居宅を移築した井田記念館。この記念館イベント時にはひな人形などを展示し賑わっています。井田友平氏は大正7年に”メヌマポマード”の創製に成功し、ベタつかずサラッとした感触は、国内シェア75%を占め、当時の若者に絶大な人気を誇りました。当時、”日本初の民放テレビで放送された、初めてのCMの一つであった”とのこと。


https://tesshow.jp/saita…/gyoda/shrine_mochida_hachiman.html

ここは、熊谷市の中心部、この石上寺のかわいい八重咲きの美しい桜に魅了されます。この桜は早咲きの彼岸桜よりも早く開花するので、一の春の戦いに「熊谷直実公」が一の谷の合戦でさきがけを争った故事にちなんで”熊谷桜”と名づけられました。北条堤と石上寺の境内に植えられた”熊谷桜”は名所なり。本日は曇っていますが。

公開された秘仏「御正体錫杖頭」を一目見ようと行列。熊谷市の『妻沼聖天山歓喜院』の本尊で国指定重要文化財「御正躰錫杖頭」の御開帳が16日始まった。安置されている厨子の扉を開くことから、「御開扉」と呼ばれる。大勢の参拝客が23年ぶりに公開される秘仏を拝観した。22日まで。前回は参拝客12万人、国宝指定後初となる今回は15万人か。この日は鈴木院主と本殿修復に携わった小西美術工芸社のデービッド・アトキンソン社長の、文化財保存をテーマに記念フォーラムを開催。
https://www.city.kumagaya.lg.jp/…/menumasy…/aun_jikiden.html

山車・屋台が熊谷囃子とともに市街地を巡行する様子は、その絢爛豪華。本日は、来るべく新時代に向けて、お囃子と歓声。訪れた人の誰もを熱く燃えさせてくれました。祝令和、熊谷市の駅前から。

熊谷の北部にある「能護寺」へ。この寺、743年に行基が開山し、後に空海が再建されたと伝えられています。本堂内の格天井には、花鳥獣が色鮮やかに描かれて印象的。そして、6月上旬から下旬にかけて、約50種800株のアジサイが色とりどりに咲き誇り、多くの見物客が訪れます。梅雨入りして、アジサイが綺麗な時季が待遠しい。”妻沼のあじさい寺”です。

貴惣門は聖天堂の正門として、聖天堂の東方約200mの位置に安政2年(1855)頃に完成したと推定。妻側に破風を3つ重ねた独特の屋根形式と八脚門が特徴です。また精緻で多様な技法による彫物は江戸末期の造形技術が伝わります。因みに、この建物は岩国藩(山口県)の長谷川重右衛門が設計を思い立ち、正清に設計図を託します。この時から100年余りを経て、正清の子孫の正道によって完成したものです。

ここ、文殊寺には熊谷の俳人”金子兜太”の句「行雲流水 蛍訪なう 文殊の地」とあります。江南地域の豊かな里山にゆっくりと時間が流れており、水辺には夏の始まりを告げるホタルも飛び交い、野原地区には古くから知恵の象徴としての文珠寺があるとした江南の原風景を描写した句です。
https://www.monjuji.com/about/


ここ、根岸家長屋門には熊谷の俳人”金子兜太”の句「草莽の臣 友山に 春筑波峰」があります。根岸家長屋門の前にある桜が咲き誇る季節に屋敷の高台から東を望むと、その春霞の先に姿を現す筑波山と、新たな時代🌅へと踏み出した根岸友山を対比し、春のうららかな日和を感じる中で屹立する友山の姿を表現した句です。

ここ、熊谷中央公園には熊谷の俳人”金子兜太”の句「利根川と 荒川の間 雷遊ぶ」があります。利根川と荒川の二つの大きな河川に挟まれている熊谷の特徴を描き、その狭間にてにて鳴り響く夏の雷を詠んだものです。二つの河川の存在がここに住む人々の感性や精神に大きな影響を与え、長い時を経ながら熊谷の原像を形成し、雷鳴の躍動感とともに、熊谷に息づく自然の景観と夏の風景を力強く表現した句。

ここ熊谷市東別府(旧幡羅郡東別府村)生まれの権田愛三は、明治時代の当初から「麦踏み」の効果を発見した。そして「権田式」栽培法の伝習を続け麦の収穫量が飛躍的に向上させた。その功績から「麦翁(王)」と称えられた。麦の季節、黄金色に輝く小麦畑が熊谷の各地に広がる。一粒の麦に傾けた愛三の情熱と魂は死せずに生き続けています。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの身を結ぶ。」新約聖書の一節
https://ameblo.jp/junpuu777/entry-12417480028.html

明治から大正の時代、熊谷市上川上(かみかわかみ)に画室を構えた女性画家、奥原晴湖。幕末に江戸に居を構え、中国の文人が描く山水画である南画の画家として「晴湖」を名乗り名声を得た。明治24年、古河藩領だった上川上に移住。「密画」と呼ばれる色彩豊かで細密な筆致で山水画や花鳥画を描き、数多くの弟子を育ている。このたび、「晴湖の道保存会」の企画で”晴湖の名を冠した日本酒”が発売された。「晴湖と上川上を内外の方に知ってもらいたい」とのこと。毎日新聞2019.06.04
https://www.asahi.com/articles/ASM5Z3SMWM5ZUTNB007.html…


石坂養平は明治18年生まれ、旧中奈良村の文芸評論家、哲学者です。ここは大正から昭和初期に建てられた石坂の生家。敷地の中央に洋館を構え、後方には数寄屋建物が建立されています。この2棟の主屋は、洋と和の好対照をなす雰囲気と特色を醸し出しています。




熊谷市の一場面その弐六。『熊谷聖パウロ教会』
同協会は1919年アメリカ人建築家ウィリアム・ウィルソンが設計、コシック様式の礼拝堂には深谷で造られたレンガが使用されている。関東大震災や熊谷空襲の被害もまぬがれた熊谷市内に残る貴重な近代建築物です。令和元年7月14日(日) この協会で16時から18時まで、建築100周年を記念するフォーラムが開催される。フォーラムでは熊谷市立江南文化財センターの山下裕樹学芸員「熊谷聖パウロ協会の建築と協会活動をめぐる歴史」を演題にした講演と、バイオリン演者・石亀希実さんによる演奏会も行われる。

「星渓園」は竹井澹如翁が別邸を設けた慶応年間から明治初年の回廊式の庭園です。元和9年(1623)に起きた荒川の洪水で土手が切れてできた「玉の池」を中心に、竹林を植え、名石を集めて造られました。玉の池は清らかな水が湧き出ていたことからこの名で呼ばれ、星川の起源でもありました。
「夕紅葉 鯉は浮くまま 人去りぬ 」山口青邨 句碑
以上令和元年5月から7月。