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熊谷市の一場面。荻野吟子シリーズ令和元年5月から7月まで。

熊谷市の一場面。荻野吟子シリーズ令和元年5月から7月まで。

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熊谷市の一場面。祝令和元年5月1日

 山車・屋台が熊谷囃子とともに市街地を巡行する様子は、その絢爛豪華。本日は、来るべく新時代に向けて、お囃子と歓声。訪れた人の誰もを熱く燃えさせてくれました。祝令和、熊谷市の駅前から。


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熊谷市の一場面。祝令和元その二 盲目の国学者塙保己一の『令義解』

 塙保己一は江戸中期に多くの資料を駆使して『令義解』を復元、発行している。この本は古代律令の解説書で「女性医師の規定」が記されていたことにより、明治時代の”荻野吟子”にとって、女性で初めての医師開業試験を受ける手助けとなったそうな。


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『石井亮一・筆子記念館』

は昭和3年竣工の昭和初期を代表する教育建造物。時は、大正初期へタイムスリップし、吟子誕生地の熊谷市妻沼、葛和田の地元の皆みなさんが、この2階の講堂で「荻野吟子の講演」を拝聴しました。吟子最晩年62歳。女医会の講演で「男尊女卑の世の中、病に苦しむ女性を救う為、多くの女性医師が増える事を期待する」と、後輩達に語るシーンで超印象的なり。

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熊谷市の一場面。祝令和元その三。妻沼のあじさい寺『能護寺』

 熊谷の北部にある「能護寺」へ。この寺、743年に行基が開山し、後に空海が再建されたと伝えられています。本堂内の格天井には、花鳥獣が色鮮やかに描かれて印象的。そして、6月上旬から下旬にかけて、約50種800株のアジサイが色とりどりに咲き誇り、多くの見物客が訪れます。梅雨入りして、アジサイが綺麗な時季が待遠しい。”妻沼のあじさい寺”です。


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熊谷市の一場面。祝令和元その四。『吟子と寛一郎と晴湖』の三人の出会い。

 慶応4年(1868)、吟子が17歳の年、稲村貫一郎に嫁いでいます。荻野吟子の熊谷生活と病の始まりでした。そして当時、稲村家に仮寓していた奥原晴湖との出会いも、彼女の人生に大きな人生を与えたようです。吟子の上京時に晴湖のように男装したとも伝えられています。三人の出会いは、くまがやドーム脇の上川上(埼玉郡上川上村)であったとは。


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熊谷市の一場面。祝令和元その五。比類ない設計思想の『歓喜院貴惣門』

貴惣門は聖天堂の正門として、聖天堂の東方約200mの位置に安政2年(1855)頃に完成したと推定。妻側に破風を3つ重ねた独特の屋根形式と八脚門が特徴です。また精緻で多様な技法による彫物は江戸末期の造形技術が伝わります。因みに、この建物は岩国藩(山口県)の長谷川重右衛門が設計を思い立ち、正清に設計図を託します。この時から100年余りを経て、正清の子孫の正道によって完成したものです。


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熊谷市の一場面。祝令和元その七。『吟子の誕生地と金子兜太』

 ここ、吟子の誕生地には熊谷の俳人”金子兜太”の句「荻野吟子の 生命とありぬ 冬の利根」があります。数々の困難を克服して日本公許女医第1号となった荻野吟子女史生誕の地俵瀬に流れる利根川には、冬になると寒冷な「赤城おろし」が吹き下ろす。こうした環境の中、利根川の広大な流れとともに吟子女史の生命が育まれ、人生の苦難を乗り越える原動力となったことを偲んで詠んだ句です。


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熊谷市の一場面。祝令和元その拾。治水対策のかなめ『中条堤』
中条堤は、江戸時代において利根川の治水対策の要となっていました。利根川の洪水を中条堤の上流側へ一時的に湛水させ、下流側を洪水の被害から守っていました。つまり、広大な面積をもつ遊水地に洪水を貯留し、洪水被害を最小限に食い止めるために設置された堤防です。利根川治水記念碑は、この改修工事の竣工を記念して昭和6年に建てられたもの。中条堤から近い俵瀬には荻野吟子記念館があります。


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熊谷市の一場面。祝令和元その壱壱。深谷市の二番目の女医『生沢クノ』

 生沢クノは、元治元年(1864)に深谷宿(現在の深谷市仲町)に生まれの日本で二番目の女医。明治16年、荻野吟子が医師を目指していた当時、多くの女性が同じように医師を目指し、医術開業試験を受験すべく活動していました。生沢クノはその一人。"学校は女人禁制のため、断髪男装のうえ、別室で修学するという苦学を強いられた"と語っている。女医への道は多くの女性たちの努力によって切り拓かれたものだった。

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熊谷市の一場面。祝令和元その壱弐。『田中カク子』と荻野吟子

 田中カク子は、飯野の「田中屋」という旅籠の娘で、明治6年に東京の国学者”井上頼圀”の門人となり、そこで吟子と知り合いました。カク子は吟子より8歳年下、以来お互いを尊重しあい、明治 41 年に吟子が北海道から浅草近くの小梅町に移ってからも文通はずっと続き、大正3年に吟子が亡くなるまで「姉妹の好ミ」の交友でした。そして、残された34通の手紙から、新しい荻野吟子像が見出されるそうな。


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熊谷市の一場面。祝令和元その壱四。熊谷ゆかりの南画家『奥原晴湖』日本酒登場。

 明治から大正の時代、熊谷市上川上(かみかわかみ)に画室を構えた女性画家、奥原晴湖。幕末に江戸に居を構え、中国の文人が描く山水画である南画の画家として「晴湖」を名乗り名声を得た。明治24年、古河藩領だった上川上に移住。「密画」と呼ばれる色彩豊かで細密な筆致で山水画や花鳥画を描き、数多くの弟子を育ている。このたび、「晴湖の道保存会」の企画で”晴湖の名を冠した日本酒”が発売された。「晴湖と上川上を内外の方に知ってもらいたい」とのこと。毎日新聞2019.06.04


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熊谷市の一場面。祝令和元その壱五。葛和田の『大龍寺の筆塚』

 荻野吟子は、幼いころから聡明で、勉強好きであったといわれている。ここ和田村(現熊谷市葛和田)の大龍寺の寺小屋"行余書院"で、12歳から学んだ可能性がある。が明治18年に建立したここの顕彰碑「筆塚」にはその第一期生の吟子の名前はない。折しも、日本公許女医第一号に合格。そして母嘉与が亡くなった年であり、荻野家の家業は厳しい状況にあった頃。いずれにしても、吟子女史の名前が見られない理由は不明。

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熊谷市の一場面。祝令和元その壱六。母・嘉与の死と熊谷駅

 明治18年4月(1885) 、荻野吟子の元に実家のから母危篤の知らせがあった。そして、あわて人力車に乗り夜中走り熊谷を経て俵瀬に着いたのは、翌朝の八時。だが母の死には間に合わなかった。吟子の公許女医第一号の誕生は同年の去る3月。母・嘉与はそれを知っての臨終であったろうか。が吟子は母の死を悼み、その後に医術開業試験に臨み、見事に誕生したともある。しかも明治16年には高崎線が開通、これに乗って俵瀬に帰ったとも言われている。真実は一つだかよくわからない。

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熊谷市の一場面。祝令和元その壱七。鹿鳴館スタイルの『荻野吟子』

 吟子は明治18年、公許女医第一号の誕生を同じくして、淑女の礼装.鹿鳴館スタイルで写真を撮った。熊谷の”小暮写真館”での撮影とも。市の写真館を調べたところ、明治6年、初めて熊谷市に写真館は登場。が”小暮写真館”はその後の明治32年、高城神社前 小原写真館の後となるとある。ときのずれ、いずこで撮影?。が吟子34歳、まさに吟子前半生の頂点の時ときであったろう。


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熊谷市の一場面その壱八。内藤満寿子が目指した『甲府女性私塾』

山梨近代人物博物館には山梨県の女性教育のさきがけ者として、内藤満寿子が紹介されています。時は明治7(1874)、荻野吟子は甲府に女性私塾の設立を目指していた内藤満寿子の求めにより、助教として甲府に赴き、満寿子を支えます。同じく井上門下であった年下の田中かく子も同行しています。この後、内藤満寿子、 荻野吟子、田中かく子は生涯を通じて長く付き合いが続きます。

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熊谷市の一場面その壱九。お昼寝ごろ。『妻沼グライダー滑空場』

 熊谷の北部、利根川流域の葛和田と俵瀬。ここは、昔、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村でした。今は、学生グライダーのメッカとして、ここ妻沼グライダー滑空場は全国の大学生が飛行訓練に励んでいます。といえどもここで、ひとやすみ。

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熊谷市の一場面その弐拾。女人禁止の医学校『好寿院』

 時は明治12年(1879)、医学校は女人禁制であったが、石黒忠悳の後押しもあり荻野吟子は好寿院に入り医学を学ぶことになった。吟子を一番苦しめたのは、男装して、男だけの学校に乗り込んだこと。そのため、酷い嫌がらせを受け、精神的にも肉体的にも苦しむ日々を送った。しかし、吟子の医者になりたいという気持ちは強く、3年目に卒業している、吟子31歳。写真はイメージ「一粒の麦・映画の一部」於:石井亮一・筆子記念館


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荻野吟子の『荻野医院開業』

 吟子は、明治18年(1885)政府公許の女医第一号となった。そして同年の5月、本郷三組町(現文京区)に 「産婦人科荻野医院」の看板を掲げた。わが国初めての女医ということもあり、吟子は新聞や雑誌にも取り上げられ、患者も増える一方という状況でした。 吟子の信念を貫く情熱、困難に打ち克つ強さに万歳!! 映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」より。


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常識外れの年の差カップル『志方之善と吟子』

 明治23年吟子に運命の出会いが訪れます。クリスチャンの志方之善という青年。伝道のために東京に来た志方は、少しの間、吟子の家に宿泊させてもらう事になったのです。そんな中、志方は自分の夢を語り始めます…「北海道にキリスト教の信者だけの理想郷を作りたい」と。志方の話に吟子も共感を覚え、やがて自らも同じ理想を抱くようになり、出会って僅か数ヶ月で二人は結婚を誓います。志方27歳と吟子40歳。チョット時期外れですが。


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熊谷市の一場面その弐四。妻沼郷の葛和田『利根川文化』

 川は文明の母と呼ばれるように、妻沼郷も古くから利根川の恩恵を受けてきました。船運交通が頻繁になってきた江戸後期以後、葛和田河岸は利根川16渡船場の1つとして大きな発展を遂げました。葛和田の渡し船は、今もなお、地域の交通機関として利用され当時の風情を残しています。荻野吟子はそんな処で育んでいます。


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熊谷市の一場面その弐八。葛和田の『大杉神社あばれ神輿』
旧妻沼(熊谷市妻沼)には、利根川に生きた人々の名残を今に伝える伝統行事も多い。大杉神社夏祭りの一環として行われる葛和田のこの『大杉神あばれ神輿』は、西の出来島あばれ神輿に対して東のあばれ神輿として有名です。大杉囃子の行列とともに練り歩き、13時30分頃、利根川に入り神輿の上で猛者達が揉み合う様は実に勇壮です。今年は令和元年7月28日の日曜日に開催。


以上。荻野吟子関連。Facebook令和元年5月から7月。






















by ginkoworld | 2019-07-11 11:06

荻野吟子の生涯と荻野吟子記念館


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