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映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』ロケマップでストーリーを紹介

荻野吟子の生涯=一粒の麦ロケマップ=
 ①荻野吟子生誕の地と荻野吟子記念館
荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日幡羅郡俵瀬村(現熊谷市俵瀬)の名主 荻野綾三郎・嘉与の五女「ぎん」として生まれました。荻野家は、俵瀬村の名主として村運営の中心を担った家で、長屋門を構えた豪壮な家でした。 この俵瀬村は、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村でした。
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======ロケコメント=========
埼玉県熊谷市出身の日本女医第一号の荻野吟子女史の映画化へ。朝日新聞2018.11.28 

 ②吟子のふるさと俵瀬
若き吟子が経験した利根川。寒冷な冬の利根川と吟子の熱き生命が密着に関わり合う。冬には赤城山からの寒冷な”赤城おろしが吹き付ける。夏は豪雨なよる洪水にさいなまれる”水場の地”であったこと。このような自然の特徴が吟子の生命と強い精神力を育てたのでしょう。利根の恵みです。
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利根川俵瀬のほとりにて。「こんな病気早くなおして、もっと学問を身につけて前に進みましょう。あなたはまだ若いのよ。これからよ」と呼びかけるシーン。吟子と荻江。 

 ③吟子の嫁入り『赤岩の渡舟』
日本初の女性医師、荻野吟子を描く映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」の撮影が20日、千代田町の利根川左岸の赤岩渡船場で行われた。渡船場下流には荒縄で結んだ撮影用の船着き場が設けられた。吟子が花嫁姿で高瀬舟に乗って嫁ぐシーンではエキストラ役から「きれい」「かわいい」と声が掛けられた。朝7時に着き、準備は万端」と撮影に取り組んだ。利根川のシーンに続き、一行は21日に長屋門のある光恩寺でも撮影された。 
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 ④坂田医院旧診療所
昭和6年、医師の坂田康太郎氏は新たな診療所を妻沼下町に開設。鉄筋コンクリート構造の平屋建て。玄関には外側へ突き出したポーチが造られ、外壁を覆うスクラッチタイル貼りが建物の顔。
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明治3年(1870)、吟子は師の松本萬年の紹介で大学東校(現東京大学医学部)の付属病院に入院することになりました。生死をさまようほどの病状となり、約2年間の入院を余儀なくされました。女性医師の必要性を痛感し、吟子自身が女医となる決意をしたのでした。吟子19歳。 

 ⑤最初の結婚
慶応4年(1868)、吟子が 17 歳になる年に、埼玉郡上川上村(現熊谷市上川上)の名主稲村家に嫁ぐことになりました。稲村家は、古河藩領であった上川上村の運営を担った家で、この地域では有数の豪農でした。吟子が嫁いだ当時、古河藩士を父に持ち、日本を代表する女流南画家・奥原晴湖が、戊辰戦争の難を逃れるため、稲村家に仮寓していました。
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=========ロケコメント=========
稲村みやのもと働く吟子。写真はロケ地と異なります。 

 ⑥妻沼聖天山
妻沼には国宝「歓喜院聖天堂」をはじめ多くの文化財や建築物があり、時代を超えて継承されてきた歴史や独特の文化があります。そうした妻沼の歴史の中で、俵瀬の地に生まれた「荻野吟子」は大きい存在です。彼女の人生が利根川を前にした妻沼の地から始まり、その時代の苦難に奔放され続け、それでも 決してあきらめずに”日本初の女医”となりました。
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吟子が女子高等師範学校への入学は、松本荻江の受験のすすめによるものと言われています。 

 ⑦メヌマポマードでお馴染みの『井田記念館』
昭和27年井田氏の居宅を移築し、井田記念館となっています。
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==========ロケメモ===========
平成31年4月、この記念館で日本初の女性医師描く映画「一粒の麦」のロケがありました。時は、明治6年(1873)父綾三郎が亡くなると、さらに学問を修めるため吟子は22歳で上京します。まず、国学者であり、かつ皇漢医である井上頼圀の私塾神習舎に入ります。

 ⑧深谷商業高校記念館
大正時代のフレンチ・ルネッサンス様式の洋風建築。歴史を語る建築物として親しまれています。
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明治16年、吟子は石黒忠鷹のもとを訪れ、助けを求めます。石黒は内務省衛生局長の長与専斉に面会して状況を伝えました。ついに医師国家試験を受けることができました。

 ⑨吟子のふるさと俵瀬
むかしの俵瀬は、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村でした。
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==========ロケメモ===========
吟子は実家の俵瀬から一通の手紙が届く。内容は母”かよ”の危篤の知らせであった。吟子は母の死を受けて自分の道は本当にこれで良かったのだろうか、誤ったのではないだろうかと考え込むが、医者になるという強い思いは変わらず、もう一度自分自身に強く言い聞かせるのであった。 

 ⑩滝乃川学院『記念館』
昭和3年(1928)に竣工された昭和初期を代表する教育建造物。
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明治12年(1879)、医学校は女人禁制であったが、好寿院に入り医学を学ぶことになった吟子。吟子を一番苦しめたのは、男装して男だけの学校に乗り込んだこと。そのため、酷い嫌がらせを受け精神的にも肉体的にも苦しむ日々を送ったこと。しかし、吟子の医者になりたいという気持ちは強く、3年目に卒業している、吟子31歳。

 ⑪光恩寺
武蔵国幡羅郡俵瀬村の名主・荻野綾三郎邸から明治18年~26年頃に光恩寺に移築された長屋門。その吟子生家の長屋門が、群馬県側の光恩寺に現存しています。千代田町側とは利根川を渡る赤岩の渡しで繋がっています。
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荻野吟子といえば、その時のドレス姿の肖像写真が有名です。明治17年(1884)熊谷市内の写真館で記念撮影をしたといわれています。あるいは東京の写真館とも。吟子34歳。
 
 ⑫吟子のふるさと俵瀬
若き吟子が経験した利根川。寒冷な冬の利根川と吟子の熱き生命が密着に関わり合う。冬には赤城山からの寒冷な”赤城おろしが吹き付ける。夏は豪雨なよる洪水にさいなまれる”水場の地”であったこと。このような自然の特徴が吟子の生命と強い精神力を育てたのでしょう。利根の恵みです。
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=========ロケコメント=========
明治24年(1891)年に起きた岐阜県を中心とする濃尾大地震で女子の孤児を保護するために立ち上がった石井亮一に賛同し、荻野医院を子供たちのために開放、吟子は孤児たちの世話をしました。写真は孤児たちを志方が引き取り、吟子が開業した東京の医院まで連れ帰るシーン。日本初の女性医師描く映画「一粒の麦」俵瀬ロケより。 

 ⑬北海道 瀬棚(せたな)町
明治38年(1905)、伝導のため之善が北海道に戻り、さらに瀬棚に帰ると、吟子も無理を押して瀬棚に戻ります。しかし、今度は志方が病を患い、同年9月23日会津町の自宅で亡くなりました。享年41歳、吟子が 54 歳のときでした。之善の墓はインマヌエルに建てられました。
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=========ロケコメント=========
夫を亡くして落ち込む荻野が、再び医師として働く決意を固める場面。北前船船主に「三本杉岩が勇気を与えてくれた」と励まされた吟子が「1人の老いた医師として、命のある限りやり通したいと思います」と答えた。

荻野吟子の生涯=一粒の麦ロケマップ=より。2019.09.01

by ginkoworld | 2019-09-06 06:14

荻野吟子の生涯と荻野吟子記念館


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