映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面集
2019年 12月 24日
映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』の代表シーンをご紹介します。
「荻野吟子記念館」は映画シーンを吟子女史の誕生から晩年の吟子像まで年代順にまとめました。そして近々、このシーンをパネル展示することで、ご訪問された皆様方に、荻野吟子像をますます、親しんでいただきたいと考えています。
先行し、「荻野吟子記念館」のホームページにアップロードしています。ご覧ください。
http://oginoginkokinenkan.com/test.html

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面一 のご紹介
1851(嘉永4)年、吟子誕生。
幡羅群俵瀬村(現熊谷市俵瀬)の名家の五女として生まれ、幼いころから聡明で、勉強好きでした。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c002.pdf

1868(慶応4)年、最初の結婚
吟子は埼玉群上川上(現熊谷市上川上)の有数の豪農で、名家の稲村家の長男に嫁ぎました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c003.pdf

1870(明治3)年、女性医師への決意
大学東校(現東京大学医学部)の付属病院に約2年間入院。女性医師を目指す契機となりました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c004.pdf

1873(明治6)年、吟子の旅立ち
両宜塾の松本万年の教えを受け、本格的に学問を始めます。そして、1873(明治6)年、さらに学問を修めるため上京しました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c005.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面五
1873(明治6)年、女子教育の道へ
まず、国学者であり、かつ皇漢医である井上頼圀の私塾神習舎に入りました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c006.pdf

1879(明治12)年、医術を学ぶ
吟子は、医学校好寿院への入学が許可され、3年間の修行を終え、優秀な成績で卒業しました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c007.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面七
1882(明治15)年、険しい道のり
吟子は、医術開業試験の願書は3度とも却下され、進退窮まっていました。が、、、、
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c008.pdf

1882(明治15)年、不屈の請願
塙保己一が復元した法律解釈書「令義解」の中に、「古代にも女性が医術に関わっていた」ことが記されていることを見つけました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c009.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面九
荻野医院の開業
1885(明治18)年、日本最初の女性医師が誕生しました。そして本郷三組町に「産婦人科荻野医院」を開設しました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c010.pdf

キリスト教入信と社会運動
1891(明治24)年に起きた岐阜県を震源とする濃尾大地震の孤児たちに、荻野医院を提供しました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c011.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面十一
1891 (明治24)年、北海道へ渡る
理想郷の建設に意欲を持つ志方に続いて、やがて吟子も北海道へ渡り、インヌマエル(現北海道今金町)に入りました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c012.pdf.

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面十一
1891 (明治24)年、北海道へ渡る
理想郷の建設に意欲を持つ志方に続いて、やがて吟子も北海道へ渡り、インヌマエル(現北海道今金町)に入りました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c012.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面十二
1905 (明治38)年、志方の死
夫の死を悲しむ吟子。瀬棚のシンボル三本杉岩に励まされました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c013.pdf

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』場面十三END
1908 (明治41)年、晩年の吟子
再び東京に戻った吟子。本所区新小梅町(現墨田区)に医院を経営し、姉とも と養女トミと暮らしました。
http://oginoginkokinenkan.com/chinema/c014.pdf